金持ちになろうとすることは、悪?【原稿一部公開】
こんにちは!高崎です。
明日から2週間、(主にビジネスミーティングのため)イスラエルに飛びます✈
今回は初のロシア経由。モスクワはマイナス2℃だそうです。寒くて死んじゃいそう。あとアエロフロートはロストバゲージが多いというネガ情報を昨日きいたのでちょっとドキドキしてます。
本日のテーマは、
『金持ちになろうとすることは、悪?』
です。
前回のブログでも書いた通り、いろいろあって去年から、世界で一番売れている本、聖書を勉強中なので、今日もそこからのネタと考察です。
ふつうに聞くと、世の中一般的にも、金持ちになろうとすることは別に悪ではないんじゃないか、と思いませんか?
でも、僕らの基準では「別に良くね(*’▽’*)?」と思っても、聖書的には”悪”とされることが、実はたくさんあるのです。
まずはこちらを御覧ください。聖書の一節です。
"金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。"
(テモテへの手紙 第一 6章9~10節)
めっちゃ酷い言われよう。ビビります。
僕は、10年前にビジネス塾に弟子入りし、もちろん、ビジネスですから収入を得たいと思ってひらすら努力をしてきました。
「成功のためなら、辛い時期だって乗り越えて見せるぞ…!」
そう思って、お金も時間も労力も、すべてをかけて本当にガムシャラにやりました。
全盛期は、月に250件のアポイント(1件あたり20分)でひらすらやっていましたが、「100やって10返ってきて、9失う(1だけ残る)」というような世界でした。
そこでも負けじと、100の結果がほしいなら1万やるぞ!という感じで、辛いことがありながらもずっと努力し続けてきました。
もちろん、そのことは、僕にとっては大きな経験値です。
ただ気になるのは、
金を追い求めた”ために”非常な苦痛をもって…
と書いてあります。
んん?アレ…?
コレはもしかして…
聖書を元にした書籍、『天の扉を開く宝石 悔い改め』(ベストライフデザイン社)には、「欲を欲する心(金銭欲・自己愛)」の悔い改めのページにこのように書いてあります。
“私と私の家族が贅沢な暮らしを夢見て、度を過ぎて富を追い求めたことで、さまざまな試練と罠にかかってきたことを主の御前で告白します。”
『度を過ぎて富を追い求めた”ことで”、さまざまな試練と罠にかかってきた』って書いてある(m'□'m)!!
またこのようにあります。
自分が中心となって、ぜいたくな生活をし、より良い服、より良い家、より良い車などを手に入れようとしてきました。そのことで人生が沈み込み、滅びに至るようなむなしい暮らしを追い求めてきたことを告白します。
『"そのことで"人生が沈み込み』って書いてある(゚∀゚)!
これはまさか。。。「成功するために障害はつきものだ」!といってガムシャラにやってきましたが、その障害を引き寄せてたのはそもそも自分だったのでは…(*゚▽゚)
そして、こうも書かれています。
最後の時代、一番恐ろしいことはマモン(金銭の偶像)に仕えることです。金銀の偶像を作り、経済の豊かさこそが本当の祝福だという信仰を持って生きてきた罪を悔い改めます。赦してください。
自分を愛し、お金を愛することにより、サタンに対して心の戸を開き、その結果サタンが私の中に住処をもうけました。
そのことで、貪欲と欲望によって生きながら、もしくは物質的な損害を受けたり、自分に損なことがあったりすると、我慢できずに、相手をさばき、批判し、敵意をもってきました。そのようにして、欲の絶えない人生を送り、その罪のゆえに神様との関係が絶たれていたことを告白します。
そのようにして欲の絶えない人生を送り、自分とお金の他には興味がない利己的な人間となる罪で私の道はふさがれ、呪いの下に置かれていることを赦してください。
もっと早く知りたかったよ!!!
でもそんなこと言われたって、
「じゃあ、どうすればいいの?」と思いますよね。
お金がないと生活できないじゃないか、と。
僕もまだまだ初心者なのでアレですが、読み込んでいくと、どうやら「”お金が”私を養ってくれる」という思い込みが、ダメっぽいです。
マタイの福音書には次のようにあります。
"だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。
あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。"
(マタイの福音書 6章24節)
ナンダッテ-( ゚д゚)
この聖句から察するに、お金を追っかける・お金に執着をすればするほど、天に見放される方向にいってしまうのでは…?と推察できます。
僕は、それだったら、「天が味方する経営」(厳密に言うならば、天の味方をする経営)をしたいなと思うように最近はなってきました。
たしかに、(今は手放したのでそんなにありませんが)僕自身も月収150万円〜200万円は得ていました。しかし、"何故か残らない"のです。
お金の管理の仕方だとか、次のビジネスに投資していたとかいう理由ももちろんあるのですが、予想外の出費などがいろいろ重なり、不思議とお金が出ていくのです。
とにかく、残らないのです。。。泣
これは僕だけではなく、ビジネス塾で成功を収めている方も皆そうでした。
収入の額面で見るとすごいのですが、とにかく、お金が残っていない。当時は「なんで?なんで?」と思っていましたが、今はわかる気がします。
例えば、一晩に何百万円稼ぐ水商売の世界であっても、仮想通貨などで瞬殺で稼いで六本木ヒルズに住んでも、それが「悪しきお金」(天から見放されている状態)であるならば、残らないということです。
水商売は、「水のようにお金が流れる」から水商売、と聞いたことがありますが、まさにその通りです。
(※繰り返しますが、人間の基準で「悪しきお金」と思えなくても、またそのつもりはなくても、聖書の基準では悪であることが多いのです)
それでは、天が味方するお金の考え方とはなんなのか?
そのヒントが、"使徒の働き"のこの箇所にあると思います。
"信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。"
"彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。
地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。"
(使徒の働き 4章32節・34~37節)
これは2000年前に、一番最初にできた初代教会での話です。
(ちなみに教会というのは本来、建物(チャーチ)のことではなく、”人の群れ”(ギリシャ語で「エクレシア」)だそうです。)
富んでいる者が、貧しい者を助ける。
これが、聖書に書かれている原理原則のようです。
僕がいたビジネス塾では、はっきりいってこれと真逆のことが行われていました。すなわち、
貧しい者が、富んでいる者にお金を差し出す。
ということが。お金の流れが、真逆なのです。
(僕も含め)成果を作って富んでいる人(月収数百万レベル)が1%ほど居て、
かたや、経費を回収できずに多額な借金をし、ワンルームに3人でルームシェア、生活するのもギリギリ…という人が圧倒的多数いました。
このとき、正常な人間ならば、「目の前で困ってるんだから助けようよ!」という慈愛の心が湧いてくるはずですが、僕も感覚が麻痺していたので、ほとんど助けずにきてしまいました。。。
それどころか、全体の集まる会議では、外車や、200万円の時計や指輪を買ったことを自慢し、「がんばったらこうなれるから、さらに自己投資をしましょう!」と促す…という狂気の沙汰が行われていました。
今思えば、これは完全アウトだろ…と思っています。
人々を苦しませて得たお金は、悪のお金です。聖書的に言うならば、これは許されることではありません。
もちろん、現実社会では、すべてがキレイにいくとは思っていません。
僕もいま自分の得ている収入がすべて人々の喜びのお金からなっているわけではないし、初代教会のようなお金の流れが理想だと言われても、この資本主義社会の日本においては、実現するのは並大抵のことではありません。(たぶん、稼いだものを人々に配っていたら、頭がおかしい人と言われますw)
でも、
彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。
この箇所が、ものすごく重要なヒントをくれている気がして、すごく考えさせられるのです。
最後に、『ザアカイの悔い改め』というお話を紹介します。
ザアカイという人は取税人のかしらで、金持ちでした。
簡単に言うと、人々から税金を多くとり、一部を自分のものとしていた人です。このザアカイがイエスと直接出会い、自ら悔い改めをするシーンです。
"ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家にきました。」”
ルカの福音書 19章8節〜9節
このことによって、ザアカイは許されました。
悪しきお金を得た人は、4倍にして返すべき。これが、聖書の基準です。
実際にやろうと思ったらとても大変なことですが、特に商売やビジネスをされている方にとっては、多かれ少なかれ、当てはまっている可能性がある話だと思います。
これを実際にやるかどうか、よりも、まず、「そうしたい」と思っているかが重要なようです。
逆に言えば、「ハンっ…そんなこと…!」と開き直っていてはダメだということになります。
自分自身の過去の過ちの告白も含め、記事を書かせていただきました。
参考になれば、幸いです。
それでは、イスラエルに飛び立ちます。シャローム!(平安であれ)
『多様性』を尊重する/1つの軸に偏ると、「宗教」に陥りがち【原稿一部公開】
前置き
高崎は、今年に入って、全世界で50億冊以上売られている『聖書』の勉強をし始めました。(全盛期は年に50冊〜100冊読んでいた高崎ですが、恥ずかしながら聖書は読んだことがなかったのですorz)
小学生のときから相対性理論(の簡易版)を読んでいたほど真理に興味があった高崎少年にとっては、聖書を読んでいると「そういうことだったのか!」という驚嘆が尽きません。
というわけで2冊目は、高崎のこれまでの経験と学びに、聖書の学びを大きく取り入れたものとなりそうです。
本日は、2冊目の書籍の原稿の一部を、公開します。
『多様性』を尊重する
全員がスーパーマンになるのが良いのか?
以前、お世話になっていたビジネス塾では、「ここにいる全員が、成功者・ビジネスオーナーになろう!」というような教えでした。
つまり、スーパーマンのような年収1億円プレイヤーが数名いて、それのやり方をマネしていけば、全員そうなれる可能性があるよ、と。
(可能性は否定しません。しかしここで重要なのは、なれる/なれないという話よりも、そもそもそれが良いことなのか?ということです。)
僕も24歳からそのビジネス塾で5年学び、それをベースに仕事をしていたので、そのような考えで10年近くがむしゃらに努力してきました。
しかし、聖書を通じて本質を学べば学ぶほど、そういうことではなく、それぞれ生まれ持ったギフト(才能)をもっており、お互いにピザのピースのように補完しあって、完全に近づけるものなのだと、知るようになりました。
それが理想の組織だと。
人それぞれに、生まれ持ったギフトが違う(多様性)
水族館に行くと、多種多様な生物がいることがわかります。同じ種類の魚でも、1つとして同じ模様がないことに気づくでしょう。私たち人間も同じで、一人として同じ人はいません。
聖書を読んでいると、人間には、戦いに優れた者、祈りに優れた者、王の器として生まれた者、など、それぞれ生まれ持った才能(ギフト)と、天命があるようです。
これを、召し(ディスティニー)といいます。
旧約聖書に、ダビデという王が出てきます。イスラエルの王といえばこの人!という代名詞です。(アメリカ人はそれに倣ってDavidという名前が多いですよね)
ダビデは、自軍の何倍もの敵兵がいるなどの絶望的な状況の戦で、奇跡的な勝利を幾度となくおさめ続けました。
その一要因として、ダビデの幕屋には、多くの祈り手や、身の回りの世話係がいたようです。(祈りというものにどれだけ効果があるかどうかは、『祈りのちから』という映画を観てください)
そして、ダビデが戦いに勝利したことによる戦利品を祈り手や世話役たちに分け与えていたことを考えると、
現代になぞらえて言えば、「稼ぐことが得意な人がお金を稼ぎ、そうではない人に分け与える」という構図が真理なのではないかと思えるのです。
レビ人といって、祭司に仕えるだけの人たちもいます。この人たちはなんと、生涯、仕事をしません(笑)
世の仕事で働いている人たちが、収入の「10分の1」を納め、それでレビ人たちは生活しているので、世の仕事をすることなく神のはたらきだけに集中できたそうです。(そのことを、創造主からモーセに「そのようにしなさい」と啓示されています)
同様に、先日イスラエルに行って知って驚いたことですが、国民の3割を占める伝統的なユダヤ人たちも、実は一切働いていません(笑)彼らは、国から税金が支給され、生活しています。(大昔のことではなく、今現在のことです!)
日本に住んでいると、ちょっとあまりに私たちのもつ常識とかけ離れているのでびっくりしますね。
それはさておき、
ダビデのために祈った多くの人々の中には、霊的に優れた祈り手もいたでしょう。しかしその人は、戦いに不向きだったり、言ってしまえば仕事はそんなにできない人だったかもしれませんw(失礼)
逆に、王としての気質が、全員に備わっているわけではありません。
これになぞらえていえば、先のビジネス塾では、「全員がダビデになろう!」というような教えでした。
お金を稼げるようになること・結果を出せることだけが正解で、成功者だ、という、
ステレオタイプの考えに染まっていたな、と省みています。
それぞれが貢献できる分野で貢献する。そのような組織が、本質的な組織ではないでしょうか。
当たり前のようですが、大切なことです。
からだの部位の中には、目もあれば、手もあります。それぞれの役割があり、比べるものではありません。むしろ、お互いに感謝すべきです。
新約聖書の中では、次のように語られています。
"もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。
それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。
みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行う者でしょうか。
みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。
あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。"
(コリント人への手紙 第一 12章17~31節)
無理して、別の何かになろうとするのではなく、
自分に与えられたギフト(才能)を見極め、それを磨く努力をし、
また自分の天命を見極め、その領域で人に貢献していくのがもっとも良いのではないでしょうか。
私たちはそのように作られている、というのが、私の今年1年の最も大きな学びのうちのひとつです。
近年、理想的な組織の形とされる、『ティール組織』でも、同じようなことが語られています。
5分でわかるティール組織
最後に一点、このような理想の組織を構築しようとすると、最もキモとなるのが、
1人の人が稼いできたものを、みんなにちゃんと分配するかどうか
です。
最も、人間のエゴが発動しやすいところですからね。。。
1つの軸に偏ると、「宗教」に陥りがち
「これこそが成功だ」と、ひとつの軸に縛られていると、それは宗教になってしまいます。
日本人は「私は無宗教です」という人は多いですが、すべての人がなんらかの宗教化の影響を受けていると思った方が良いです。
昔からの学歴主義は「学歴教」と言えますし、
過度な健康オタクは「健康教」、
筋肉を鍛えるのが正義、という「筋肉教」みたいな人もいます(笑)。(健康のために筋肉維持は大切ですが、その筋肉を誇ったり、比べたりするのは筋肉の偶像崇拝と言えます)
他にも、六本木や新宿あたりの夜の街にはメイクや髪の毛盛り盛りな「美の偶像崇拝」も見受けられますし、
もっとも多くの日本人がハマってしまっているのが、「お金の偶像崇拝」でしょう。
日本人は、拝金主義だ。―落合陽一
「お金をたくさん持っているとすごい」「お金がないと悲惨」という風に、『お金が神様』みたいになっているのです。
「無宗教」と言っているにも関わらず、がっつりお金に囚われている人は少なくありません。
どの軸にも縛られることなく、右にも左にも逸れず、
中庸であることが重要なようです。
【必見】『宗教と信仰の違い』はこちら
ブログ再開!
高崎です。
ハイスコアを出版してから1年が過ぎました。
とにかく今年はいろいろあり、僕の人生の中でもっとも激動の2019年でしたが、 そのことも踏まえて2冊目の執筆を始めているので、原稿の一部をブログに載せていこうかなと思います。
学びの中で最も大きかったのは、50億冊以上売られていると言われる『聖書』を学び始めたことです。
全盛期は年に50冊〜100冊読んでいた高崎ですが、恥ずかしながら聖書は読んだことがなかったのですorz
しかし勉強してみると、これまでの考えが根本から覆ることも多く、高崎の知的好奇心はおおいに炸裂しています(!)
小学生のときから相対性理論(の簡易版)を読んでいたほど真理に興味があった高崎少年としては、「そういうことだったのか!」という驚嘆が尽きません。
今では、週3でがっつり聖書の勉強をしているほどです。
初心者なので、まずは、こども聖書(アプリ)やまんが聖書から入ったんですけどね(笑)
というわけで2冊目は、高崎のこれまでの経験と学びに、聖書の学びを大きく取り入れたものとなりそうです。
乞うご期待!
【感謝】『ハイスコア』がランキング1位獲得!
オーディオブックが、発売初日から
Amazonオーディオブックランキング
売れ筋 1位
新着 1位
皆様のおかげです、本当にありがとうございます(=^人^=)!!
さらに、書籍のほうでも
紀伊国屋全国デイリー 1位
ジュンク堂 ジャンル別ランキング 2位
三省堂有楽町店ランキング 1位
八重洲ブックセンターランキング 1位
を獲得!
また東京テレビの『News モーニングサテライト』で
ビジネス書最新ランキング 2位
少数派に入る覚悟をしよう!【原稿一部公開】
はっきり言います。「最高得点を目指す生き方」というのは、普通(多数派)の生き方ではありません。
従業員の常識には当てはまりません。常識ではないという意味で、非常識な生き方です。非常識な人生を送りたかったら、非常識な行動が必要です。
僕は、師匠に弟子入りしてすぐ、土日の学びの場に行きたかったので、長野から東京に新幹線で毎週、通っていました。このときの生活はこうです。 まず、土日東京に泊まりで行くので、金曜日はスーツケースを持って出社します。上司から「高崎、なんだこのキャリーバッグは?」と言われ「いや、 ちょっといろいろありまして......」と煙に巻きます(笑)。
金曜日の夜、定時まで長野の会社で仕事をした後、すぐ新幹線に飛び乗って、 20時に東京に着いて活動します(師匠から言われた宿題をやったり、人と会ったり)。土日はがっつり学び、日曜日の夜に帰ってもいいのですが、長野新幹線の終電が21時くらいだったので、もう少し東京で活動していたい!と思い、月曜日の始発で長野に帰っていました。そのまま家に帰らずに駅から直行で出社していたので、スーツケースは持ったままです。
「いや、だからなんだこのキャリーバッグは?」「いや、ちょっと......」というくだりをまたやります(笑)。これを4ヶ月続けました。
もちろん、会社の仕事はちゃんとやります。栄養ドリンクとブラックコーヒーのお世話になりっぱなしでした。
土日休んでいないわけなので、体力的にはとてもきつかったのですが、心は充実していました。
周りからは、「あいつ、土日に東京で何やってるんだ?」と思われていたと思います。謎の行動をする男だったでしょう(笑)。
でも、それでいいんです。「あいつは変わってる」「ちょっとおかしいよね」と言われるくらいが、ちょうどいいです。
周りから、変に思われないために、生まれてきたのではありません。自分を防御するためではなく、一度きりの人生を、最高のものにするために生まれてきたのですから。
ポジショントーク(正当化)のワナ【原稿一部公開】
大半の人が、ポジショントークをする
先輩からの助言は、ポジショントーク(その立場からの発言)であることが多いです。自分の立場を、正当化する傾向があるということです。
良い・悪い・正しい・間違っているということはありません。
みな、それぞれ立場も違えば生まれ育ってきたバックボーンがぜんぜん違うので、当然です。
例えば、同じ会社の先輩でも、独身の頃は、「独身はいいぞ〜、自由だし。結婚とかは考えられないなあ」と言っていたのに、結婚して子供が生まれたりすると急に「子供はかわいいぞ〜、お前はいつ結婚するんだ?」と 後輩に言い始めたりしませんか?
わかりやすいのは、離婚したときです。「結婚なんて、するもんじゃねぇ!」と言います。
同じ人でも、立場が変わると言うことがぜんぜん変わってしまいます。みな、自分の立場を正当化するということです。
人からの意見を聞く場合、そのことを踏まえて、注意して聞く必要があります。従業員の人は、従業員のポジショントークをします。「ビジネスをやっても自由になるなんて一部の人だ」「そんなうまい話 があるわけがない」「俺たちには関係のない話だ」「まじめに働くのが一番なんだ」......などです。
経営者の人も、ポジショントークをします。「なぜ夏の暑い日に着たくもないスーツを着て、尊敬も しない人にヘコヘコ頭を下げているんだい?」「キャッシュインの手段はいろいろあるのに、なぜ合理的でない社員というやり方を自動的に選ぶのかね?」などです。
僕も極力、「客観的に」を意識してはいますが、少しはポジショントークをします。僕は経営者なので、経営者のポジションから発言します。人が発言する以上、100%客観的 というのはないと思ったほうがいいでしょう。
だから、なおのこと誰の言うことを採用するかは重要だと思います。
〝苦手〟なのではなく〝未熟〟なのだと思う【原稿一部公開】
たいしてやってもいないのに〝苦手〟というのはおかしい
独立なんて、「僕には・私にはとてもムリ」と反射的に言う人は、とても多いです。「話すの苦手だから」という発言もとてもよく聞きます。
「大勢の人の前で話すの苦手な人!?」と訊くと、ほとんどの方は、サッと手を挙げます。
次に、「じゃあ手を挙げている方にお尋ねします。人前でスピーチを何回くらいしたことがありますか?」と訊くと、「いや〜、2回くらいっすかねえ」と返ってきます。
100回くらい練習したのにうまくならない、というならまだしも、2回でできるわけないじゃないですか。
そう、"苦手"なのではなく、やってない、つまり未熟なだけなんです。
テニスを2回しかやってないのに、錦織圭みたいな鬼・弾丸サーブを打てるかって話です。 それは「テニスが苦手」なんじゃなくて、「テニスが未熟」なだけなので、できるようになりたければ、やればいいだけです。何も難しいことはありません。