『多様性』を尊重する/1つの軸に偏ると、「宗教」に陥りがち【原稿一部公開】
前置き
高崎は、今年に入って、全世界で50億冊以上売られている『聖書』の勉強をし始めました。(全盛期は年に50冊〜100冊読んでいた高崎ですが、恥ずかしながら聖書は読んだことがなかったのですorz)
小学生のときから相対性理論(の簡易版)を読んでいたほど真理に興味があった高崎少年にとっては、聖書を読んでいると「そういうことだったのか!」という驚嘆が尽きません。
というわけで2冊目は、高崎のこれまでの経験と学びに、聖書の学びを大きく取り入れたものとなりそうです。
本日は、2冊目の書籍の原稿の一部を、公開します。
『多様性』を尊重する
全員がスーパーマンになるのが良いのか?
以前、お世話になっていたビジネス塾では、「ここにいる全員が、成功者・ビジネスオーナーになろう!」というような教えでした。
つまり、スーパーマンのような年収1億円プレイヤーが数名いて、それのやり方をマネしていけば、全員そうなれる可能性があるよ、と。
(可能性は否定しません。しかしここで重要なのは、なれる/なれないという話よりも、そもそもそれが良いことなのか?ということです。)
僕も24歳からそのビジネス塾で5年学び、それをベースに仕事をしていたので、そのような考えで10年近くがむしゃらに努力してきました。
しかし、聖書を通じて本質を学べば学ぶほど、そういうことではなく、それぞれ生まれ持ったギフト(才能)をもっており、お互いにピザのピースのように補完しあって、完全に近づけるものなのだと、知るようになりました。
それが理想の組織だと。
人それぞれに、生まれ持ったギフトが違う(多様性)
水族館に行くと、多種多様な生物がいることがわかります。同じ種類の魚でも、1つとして同じ模様がないことに気づくでしょう。私たち人間も同じで、一人として同じ人はいません。
聖書を読んでいると、人間には、戦いに優れた者、祈りに優れた者、王の器として生まれた者、など、それぞれ生まれ持った才能(ギフト)と、天命があるようです。
これを、召し(ディスティニー)といいます。
旧約聖書に、ダビデという王が出てきます。イスラエルの王といえばこの人!という代名詞です。(アメリカ人はそれに倣ってDavidという名前が多いですよね)
ダビデは、自軍の何倍もの敵兵がいるなどの絶望的な状況の戦で、奇跡的な勝利を幾度となくおさめ続けました。
その一要因として、ダビデの幕屋には、多くの祈り手や、身の回りの世話係がいたようです。(祈りというものにどれだけ効果があるかどうかは、『祈りのちから』という映画を観てください)
そして、ダビデが戦いに勝利したことによる戦利品を祈り手や世話役たちに分け与えていたことを考えると、
現代になぞらえて言えば、「稼ぐことが得意な人がお金を稼ぎ、そうではない人に分け与える」という構図が真理なのではないかと思えるのです。
レビ人といって、祭司に仕えるだけの人たちもいます。この人たちはなんと、生涯、仕事をしません(笑)
世の仕事で働いている人たちが、収入の「10分の1」を納め、それでレビ人たちは生活しているので、世の仕事をすることなく神のはたらきだけに集中できたそうです。(そのことを、創造主からモーセに「そのようにしなさい」と啓示されています)
同様に、先日イスラエルに行って知って驚いたことですが、国民の3割を占める伝統的なユダヤ人たちも、実は一切働いていません(笑)彼らは、国から税金が支給され、生活しています。(大昔のことではなく、今現在のことです!)
日本に住んでいると、ちょっとあまりに私たちのもつ常識とかけ離れているのでびっくりしますね。
それはさておき、
ダビデのために祈った多くの人々の中には、霊的に優れた祈り手もいたでしょう。しかしその人は、戦いに不向きだったり、言ってしまえば仕事はそんなにできない人だったかもしれませんw(失礼)
逆に、王としての気質が、全員に備わっているわけではありません。
これになぞらえていえば、先のビジネス塾では、「全員がダビデになろう!」というような教えでした。
お金を稼げるようになること・結果を出せることだけが正解で、成功者だ、という、
ステレオタイプの考えに染まっていたな、と省みています。
それぞれが貢献できる分野で貢献する。そのような組織が、本質的な組織ではないでしょうか。
当たり前のようですが、大切なことです。
からだの部位の中には、目もあれば、手もあります。それぞれの役割があり、比べるものではありません。むしろ、お互いに感謝すべきです。
新約聖書の中では、次のように語られています。
"もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。
それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。
みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行う者でしょうか。
みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。
あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。"
(コリント人への手紙 第一 12章17~31節)
無理して、別の何かになろうとするのではなく、
自分に与えられたギフト(才能)を見極め、それを磨く努力をし、
また自分の天命を見極め、その領域で人に貢献していくのがもっとも良いのではないでしょうか。
私たちはそのように作られている、というのが、私の今年1年の最も大きな学びのうちのひとつです。
近年、理想的な組織の形とされる、『ティール組織』でも、同じようなことが語られています。
5分でわかるティール組織
最後に一点、このような理想の組織を構築しようとすると、最もキモとなるのが、
1人の人が稼いできたものを、みんなにちゃんと分配するかどうか
です。
最も、人間のエゴが発動しやすいところですからね。。。
1つの軸に偏ると、「宗教」に陥りがち
「これこそが成功だ」と、ひとつの軸に縛られていると、それは宗教になってしまいます。
日本人は「私は無宗教です」という人は多いですが、すべての人がなんらかの宗教化の影響を受けていると思った方が良いです。
昔からの学歴主義は「学歴教」と言えますし、
過度な健康オタクは「健康教」、
筋肉を鍛えるのが正義、という「筋肉教」みたいな人もいます(笑)。(健康のために筋肉維持は大切ですが、その筋肉を誇ったり、比べたりするのは筋肉の偶像崇拝と言えます)
他にも、六本木や新宿あたりの夜の街にはメイクや髪の毛盛り盛りな「美の偶像崇拝」も見受けられますし、
もっとも多くの日本人がハマってしまっているのが、「お金の偶像崇拝」でしょう。
日本人は、拝金主義だ。―落合陽一
「お金をたくさん持っているとすごい」「お金がないと悲惨」という風に、『お金が神様』みたいになっているのです。
「無宗教」と言っているにも関わらず、がっつりお金に囚われている人は少なくありません。
どの軸にも縛られることなく、右にも左にも逸れず、
中庸であることが重要なようです。
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