高崎圭悟 執筆ブログ

『ハイスコア 人生は最大限を目指すゲーム』著者 株式会社REAL JAPAN代表 高崎圭悟のオフィシャルブログです。

行動力なんて言葉は嘘っぱち!【原稿一部公開】

「高崎さんは行動力がありますね~、とても自分には...」みたいなことを、何度言われてきたかわかりません。
ここで声を大にして言いたいのは、行動力なんていう能力は存在しない! そんな概念は嘘だ! ということです。
行動力という能力値が高いとか低いとかがあるんでしょうか? 根本的に考え方が間違っていま す。
行動力なんていう言葉は、ほとんどの場合言い訳にしか使われません。
人が動くのは、願望です。
「私、行動力ないし~」と言っている女子も、ディズニーランドには年間ものすごい回数行っていたり、好きなアーティストのライブのために地方まで遠征したりしますよね(めっちゃ行動してるじゃないですか......)。

 

車のナビのように、願望にセットされていれば動き、願望にセットされていなければ動かない。
ただそれだけです。みんな、願望通りなんです。
(正確に言うと、願望の ①明確さと②強さです。これが揃えば、どんなに怠惰な人だって動きま す。)

 

「がんばりたいとは思ってるんだけど~、ついサボっちゃうんですよね~」
→いいえ、サボりたいんです。「がんばりたい」を押しのけて「サボりたい」がセットされちゃってるんです。
「変えたいとは思ってるんだけど~、なかなか変えられないんだよね~」
→いいえ、そのままでいたいんです。(実は何ヶ月も前から同じ発言をしていませんか?)
大変な思いはしたくない、今のままでいたい、それが一番大きい願望としてセットされてるから、 無意識のうちに現状維持を選択しているだけです。

 

あなたの回りにも、 1人はいませんか? いっつもうじうじ悩んでいる、悲劇のヒロインみたいな人が。
そういう人は、〝悩んでる自分〟が願望なんです(専門用語で、不健全な願望)。「悩みたい」という願望が先にあって、悩むネタを無意識に探してるだけです。

 

他の動物にはない、人間だけに与えられた〝特権〟である、願望という力。有効に、健全に使いたいですよね。
先ほどの「行き先を決める」という話と、直結します。行き先=願望です。

親の言うこときいてるようじゃ、親孝行なんてできない【原稿一部公開】

親孝行は、やって当たり前
将来の目標の話をやりとりしているとき、目標のひとつに「親孝行したい」が出てくることは、とても多いです。
そのこと自体は、とても良いですよね。すばらしいですね、と言いたいところですが、ここはあえて、本音を言ってしまうと、親孝行は、一人の大人として、するのが当たり前だ と思っています。
少し僕の話になってしまいますが、僕は26歳のときに父が急死しています。24歳で弟子入りして、 事業が軌道に乗り始めて脱サラして間もない頃でした。
25歳で会社員を脱出できたので、時間にも余裕ができ、やっと親孝行ができる! どこかの温泉に連れていってあげようか、と思っていた矢先の出来事でした。
先ほど偉そうなことを書かせて頂いたものの、僕は、父には何も返せていません。愛情表現などしない、いつも外でたばこを吸っていてコミュニケーションもろくにとらない不器用な父でしたが、 してきてくれたことのありがたみは筆舌に尽くし難いです。そのぶん、母親にたくさん返そう! と、今もできる限りの親孝行はしているつもりです。(シンガポールのマリーナベイサンズに連れて行ったときは、偶然同ホテルに訪れていたベッカムとすれ違った! と喜んでいました。)
小さい頃から、オシメを変えてもらったり、夜通し看病してくれたこともありました。
ずっとタダ飯食わせてくれたり......まさに、無償の愛で、たくさんたくさん、もらってきたと思います。
そのことにじゅうぶん応えた。じゅうぶん返している。それに胸をはれて、それでやっと、「自立してる」と言えるのではないでしょうか? 社会人になって自分の給料で生活してるってだけで、 「自立」ってことにはならないと思います。

 

やってもらってきた分を返して、やっと一人前。
その上で、親の予想を超えてこそ、喜ばせてるってことになると思います。
僕の場合は、まず天の父に誇れる生き方をしようと決めています。

 

生前の父の望みは、「せっかく大きい会社に就職できたんだから、その会社で定年まで働けよ」で したが、その点は完全にスルーしています(笑)
ここからは勝手な自己都合の解釈なのですが、仏教的な表現を使うならば、いま父は肉体を離れて魂になってるはずなので、魂的には「息子よ、現世で多くの経験を積んで、たくさん学んでこいよ」と思っているはずです(たぶん)なので、挑戦するほうを選び、人生での学びをたくさんたくさん積み上げている今の生き方を、父はこの上なく喜んでくれているはずなんです(おそらく)
恥ずかしげもなく言いますが、ここに関しては「ほら、見てみ! あんたの息子、けっこう自慢していいぜ」って胸をはって言えます。そうなるように、努力してきました。

 

母も(母はまだ生きてますよ)、「普通に健康で生きてくれればいいから」というレベルでしか僕に望んでいま せんでしたが、挑戦を重ね、母の想定よりもずっとずっと良い人生にしてきました。

 

「親の予想を超えてこそ、親孝行でしょ」と、僕はそう思ってます。

 

ここで言いたいことは、親の希望通りの人生をただ生きて、何が親孝行かということです。
親の注文通りに、右向け右の人生では、つまらないと思います。それは、「他人の人生を生きる」ことにほかなりません。
誰の人生でしょう?
親は最終的には、子供が「自分自身の人生を生きる」ことを喜びとするのではないでしょうか。

あなたの名字のルーツは?

高崎です。

日本の名字のルーツに関する本を読んでいて、興味深かったのでブログに書きます。

佐藤→鎌倉時代武家が領地の農民に名字を与えていったことから広まった

  他にも「藤」のつく名字の場合は、武家由来のことが多いそう
鈴木→熊野信仰(※)から生まれ、信者に広く名字を与えたことが由来 
  ※熊野では、刈り取って束ねた稲を「すすき」と呼び、神が降りてくるとされた
  西日本に鈴木が少ないのは、熊野信仰が東日本中心に広まったため
  宇井・榎本もその一族

◎地形性(土地の地形から名字にしたもの)
田中→田を管理する中心人物、または田んぼの近くに住む人
  東北地方ではそれほど米がとれないため田中が少ない
山本→山の神の元で神事を行う人、または山のふもとに住む人
山口→山の入口に住む人
新田→新しく開梱した土地
石田・岩田→石や岩が多い開拓地が由来
松田→「神を待つ」意味の願掛けで、田の近くに松を植える地域があり、そこから名字をとった
高橋→高い橋の他にも、神の降臨を願う「タカハシ(天と地を結ぶ階)」の意味もあった
渡辺→大阪の渡辺というところに源綱が住んだのが始まり。渡辺綱は、鬼を退治したなどの伝説が残っている
伊藤→伊勢の藤原氏が始まり。のちに松坂屋を興した一族
加藤→加賀の藤原氏が始まり。
後藤→藤原氏の後裔
佐々木→滋賀県の佐々木という土地にに源経頼が住んで、佐々木を名乗ったところから
吉田→「良い田」から生じたものの他に、葦田が「悪し田」に通じることを嫌って「よし」に変えたものがある
小林→雑木林のようなところが由来で、長野県飯田市諏訪氏の一族と群馬県藤岡市の小林党の2大氏族がある
中村→「中心となる村」「分村に対する本村」という意味で全国に中村という地名があり、そこからとられた名字
斉藤→藤原叙用斎宮頭という官職についたところから
山崎→「山の稜線の先端(山裾が突き出した地形)」から地名になり、そこからとった
長谷川→奈良県桜井市の谷川を長谷の初瀬川と読んでいたのが始まり
宮本→「神社のふもとにすんで神に奉仕する人」が由来
 
◎方位性(東・西・南・北・上・下という概念からつけたもの)
上村、北山など。
東西南北上下の他にも、十二支を表す文字も方角を示すため、
例えば都市の南東に住んでいたので「辰巳」という名字の例もある。
 
◎沖縄は特に、そのまま地名を名字にする傾向が強い(安室、金城、島袋など)

ちなみに、アメリカでは地名や台風などに「ジェーン」「エドワード」などの人の名前をつけるのに対し、
日本人は自然や地名から名字を頂いている(ほとんどの名字には自然物が含まれている!)という点もおもしろいですよね。

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【出典】

実家の人は、自立しましょう【原稿一部公開】

実家は、「生きる力」を失う場所

僕は、実家暮らしは、いろいろな面で、良くないと思います。 人生においてうんと大切な学びの多くを、取りこぼしていると思うからです。 僕は高校を卒業してからずっと一人暮らしですが、初めて一人暮らしをして生まれた感情は、「大いなる感謝」でした。

 

「当然の結果を味わう」トレーニング

例えば実家では、よく脱いだパンツをその辺りに放り出していました。帰宅すると、片付けて あったりします。一人暮らしを始めてからは、パンツを床に放り出したら、帰宅してからも、当然 パンツは放り出されたままです。
洗い物をしなければ、洗い物が溜まっているという結果を味わいます。 ごはんも、自分で用意しなければ、出てきません。 この「人生は当然の結果を味わう」という当たり前のことすら、実家に住んでいるときはトレーニング出来ていなかったのです。


「生きる力」を身につけたいのであれば、実家から出ることをおススメします。
結婚・同棲をするお相手の方もさぞ大変だと思います。

ただでさえ、他人と一緒に住むというのは多くの人にとって修行だというのに、一人で暮らした 経験のない人と一緒に暮らすと何が起こるでしょうか? 「やってもらって当たり前」と 思っている人と一緒に暮らすのは、僕だったら御免こうむりたいと感じます。(僕だけでなく、多くの男性の意見を代表して述べています)

 

誰かに許可を求める人生からの卒業

また実家だとどうしても、お父さんお母さんに許可を求める癖が付きがちです。
「~~していいのかな?」が口癖の人は要注意です。
根底に、誰かの許可を求める、言ってもらって安心したい、みたいな保証を求める癖があると、 他人に支配されて人生が終わってしまいます。
誰かの後ろ盾がないと不安っていうのは、本当に力を失った生き方だと思います。
人生は、究極の自己責任です。自分の人生は、自分で責任をとりましょう。

「会社の看板」を取っ払ったら、あなたは誰?【原稿一部公開】

役割と自分を同一化してしまうワナから抜ける

 

会社や職業などの、〝属性〟を取っ払ったら、あなたは誰でしょう?
ふだん自分がしている、「自己紹介」の内容を、ちょっと思い起こしてみてください。
仕事の話、職業の話はどのくらいの割合で出てきましたか?
では、仕事や会社(もしくは出身や、年齢等)の〝属性の〟話をせずに、自分はどんな人間か、 語ることはできますか?
「こんなことを大事にし(価値観)、こんなビジョンがあって、理念はこうです!」ということを、 1時間以上、語れますか?

 

僕はSEをやっていましたが、当時、この〝属性〟の話を封印して、自己紹介をしてみようと 思ったら......
言葉が出てこなくなってしまい、「Who am I !?」となってしまいました。これは衝撃でした。 「職業と自分を、同一化」していたことに気づいたんです。
言い換えると、自分に「SE」というレッテルを貼っていたんです。
みなさんは、どうですか? 「私は、看護師です。」「私は、主婦です。」のように、
役割と自分を同一化していませんか?


僕が着けている時計は、僕そのものではありません。
あなたが着ている服は、あなたそのものではありません。
僕はSEという仕事をしてましたが、SEは僕そのもの ではありません。
あなたがしている仕事は、あなたそのものではないわけ です。

「仕事」という属性をとったら、あなたは誰ですか?

その職業である前に、ひとりの人間です。
人間という価値ある存在を、職業、もっと言えば「社会 の役割」に成り下げてしまう必要は、ないわけです。

副業はすでに解禁されている【原稿一部公開】

「副業禁止」はもう古い、時代は「副業推奨」

 

日経新聞でも報じられましたが、今は政府が、副業を後押しする時代です。
企業が副業を認める背景として、前向きな理由のものと後ろ向きな理由のものに分けられます。 後ろ向きな方は、主に大手メーカーの工場などに多く、業績悪化から給料の目減りが避けられず
「もう、あなたの生活は保障できないので、自分でアルバイトしてなんとかしてね」という意味合い です。
代表的な企業に、日産自動車三菱自動車キヤノン、ブリヂストン、デンソー、花王トヨタ車体三菱化学、水島製作所、東芝富士通等があります。
一方、前向きな理由の方は、「横断的な広い視野での経験・アイデアを外で学んできて、自社で生かして欲しい」というものです。
代表例は、エンファクトリー、サイボウズ、リクルート、メルカリ、リブセンス、アクセンチュ ア、ビズリーチ、ヤフー、グーグル、クラウドワークス、フィードフォース、トレンダース、スマートニュース等。
エンファクトリーのHPには「専業禁止 」という言葉が枠囲みで表示されていて、強制ではないが社員に副業を持つことを推めているそうです。
ヤフージャパンも副業を認めており、すでに副業を持つ社員の数は数百人に上るそうです。
「社員の面倒を会社が一生みられるわけではない。社員にも個人として色々な経験を積んで準備をして欲しい。会社はその環境を整えるべきだ」と述べています。

 

史上最年少 才で東証一部上場したリブセンスの取締役も、「副業禁止の原則はありえない」と語っています。
すでに、世の中はこれだけ変わっています。 しかも、昔は株式会社を作るのに、最低資本金が1000万円必要でした。
今は、資本金は1円でも認められます。諸費用合わせても、30万円ほどあれば会社は作れます。 ガラパゴス諸島で今日まで生き残っている生物は、大きい生物でも、強い生物でもなく、〝最も変化した生物〟だそうです。

 

門戸はすでに開かれています。あなたはどうしますか?

エリートではなく〝いいヤツ〟がうまくいく世の中【原稿一部公開】

僕の理想は、ピュアな人(ハートの良い人)・まじめな人が、ちゃんと豊かに幸せな人生を送る、 そんな世の中です。逆に、純粋な人が恩恵を受けられずに(ひどい場合は利用されて)、たんに〝やなヤツ〟がうまいこといく世の中はイヤです。

 

部活動で言えば、基礎練を、毎日まじめに一生懸命やってる人が、やっぱりレギュラーに抜擢さ れ、輝いて欲しいなと思ってしまいます。
生まれつき才能の塊みたいなスーパースターや、ウマいことやって監督に気に入られた人しかレ ギュラーになれないんだったら、興ざめです。甲子園で、ぜんぜん間に合っていないのに、一塁 ベースにヘッドスライディングする姿に、胸が熱くなります。応援したくなります。

 

僕も、24歳のとき、師匠に弟子入りしたときから、恥も何もかなぐり捨てて、泥くさく、がむしゃらにやってきました。

 

「努力が報われる世の中」。これが、僕の胸を熱くするキーワードのひとつです。とても大事にして いる価値観です。

 

汗ひとつかかずに、労せずして既得権益で食ってる人とか、分不相応な収入をもらってる人とか、 見てて気持ちよくありません。はっきり言って、ぜんぜん尊敬もしません。
なんというか、美しくない。粋じゃない。
そういう上澄みでメシを食ってるような人たちが、まじめに頑張ってる人たちの尊厳を軽視したり、ましてや利用していたりという社会構造には、憤りすら感じます。

 

決して器用ではないかもしれないが、深夜まで残業してがんばってる人の姿は、健気です。 つい、他の人のぶんまで仕事を手伝ってあげちゃうような、責任感の強い人、尊敬します。 給料は変わらないかもしれない。でも、間違いなく、〝徳〟は積み上げていると思います。

 

だからこそです。だからこそ、その、人の良さを、もう少し別の方向に向けて、心身ともに豊か にしませんか。というのが、本書の提案です。